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と同時に、「繋辞の「である(Ist)」が既に主語と述語との、あの規定されかつ充実された統一として、そ
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れらの概念として措定されているのであれば、それはもはや推論になっている」(ibd.)。こうしてヘーゲルの
「判断」は一つの概念の分割によって生じた空虚な形式的繋辞から、再び一つの概念の同一性を目指
すものであり、「推論」とはこの同一性を内容的に充実された概念として段階的に措定する議論と言え
る。
ーKopula と述語の否定の関係ー
において、、それが再び自己自身との比較という姿を取って自己に還帰する典型的な過程は、に見られ
る。

そして基本的にを踏襲すカントの範疇・判断 表がとりわけまず
そこには、異なる概念の内包の重なり合いだけが比較されている。例えば
判断「ある人間は成人男性ではない(Quidam homo non est Vir)」は、「幼児」のように少なくとも一つ
の「成人男性ではない」種類の「人間」
「「成人男性」という観念とともに理解されるのは、「人間」そのものの観念のもとにおいてではない」
(Ploucquet, 53)。
「幼児は成人男性ではない」の「換位(conversio)」
、Anner 20,21
媒介する同一性という肯定的結果 373

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